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13.地震

◎地震の多発
去年の暮れから現在まで県山岳部を震源とした地震が起きている。10年前に地震があった蒐泊地区と探索者の居る街との中間点であり、専門家は活断層のズレが原因と見ている。

探索者が現在起きている地震に注目した場合、そこから蒐泊地区で起きた10年前の地震→九十九森村に至るよう誘導すると良い。

◎蒐泊地震
10年前、6月21日午前2時48分発生。震度5強。死者46名、行方不明者27名。未明に直下型の揺れが起こった後、地下水脈の決壊から河川が氾濫、大規模な土砂崩れによる二次災害が発生した。特に深奥部に位置する百足ヶ淵付近は被害が酷く、死者、行方不明者の多くは隣接する九十九森(つくもり)村の住人である。
垣内竜太郎県議会議員の呼び掛けもあり、現在は住居や道路等大分復興したが、深奥部だけは地盤が不安定なことから手付かずのまま放置され、隔絶状態が続いている。

・向日家調査隊
県立大学の地質学教授、向日家清吉及びゼミの研究員4名が当地を調査中、地震に合い行方不明になっている。向日家教授は蒐泊地区の道路事業に伴う地質調査の依頼を県から受け、現地に入っていた。調査は6月1日から行われ、教授らは地震のあった21日はその1週間前から九十九森村に滞在していた。

→向日家調査隊メンバー
行方不明者は向日家清吉教授(当時46歳)、「佐藤雅(さとう・ただし)…当時28歳」、「上那賀晴樹(かみなか・はるき)…当時28歳」、「佐々創(さっさ・はじめ)…当時26歳」、「高嶺員子(たかみね・かずこ)…当時25歳」、「佐藤善幸(さとう・よしゆき)…当時23歳」

→残された資料
当時、向日家教授が取ったデータが県庁舎や大学に残っている。地震があった3日前(18日)までの調査データで、地質の他、水脈や植生について詳細な報告がなされている。これに目を通し、<地質学>に成功すれば、蒐泊地区一帯が地下水脈までかなりの距離がある為、干上がった土壌であることがわかる。特に百足ヶ淵を中心とした一帯は顕著でアフリカ北部の砂漠地帯に近い。植生も高山植物が多く、百足ヶ淵付近からは乾いた土地に咲く珍種の月霊花と思しき花が見付かった。
※月霊花については別項目(12)参照。

→ゼミの学生
10年前当時、向日家教授のゼミに所属しており調査に参加していた学生が現在も大学に残っている(他の教授の下、博士課程を受講中)。この学生は発熱から地震の合った3日前(6月18日)に調査隊を離れ、それが幸いして被害を免れた。
この学生から以下の情報を得ることが出来る。

1.九十九森村の様子
村は半ば外界から隔絶しており、前時代的な閉塞感が漂っていた。古い因習的なものが村を支配しているようで、所作を知らない部外者である調査隊は村から阻害されているような居心地の悪さを覚えた。
九十九森という村名を冠する大きな家があり、その一族が村の行政を仕切っていた。村人は九十九森家に古くから従っていたが、権利の独占に不満を持つ者も少なくなかった。道路開発に対し九十九森家は反対だったが、村の若年層を中心にするグループは開発を歓迎し水面下で対立していた。調査隊は開発推進派の者達に迎え入れられた。

2.百足ヶ淵
地盤的に危険な個所で、九十九森家によって侵入を禁止されていた。人食い龍の住む場所という言い伝えがあり村では古くから禁忌の場所とされていた。
調査隊は開発推進派の者達の協力でその途中まで入ることが出来たが、九十九森家の妨害に合い6月18日(学生が村に居た日)時点で百足ヶ淵には至っていない。

3.協力者
九十九森家の血縁でありながら、開発推進派のメンバーだった人物が居た。「九十九森弦汰」という人物で、推進派のリーダーとして活動していた。
by nurunuruhotep | 2009-08-21 22:06 | 月狂 | Comments(0)